6月12日から14日まで、沖永良部島と与論島へ行ってきました。
数回に分けて連載します。途中で他の話題が入る(かも?)しれませんので、記事には”202006沖永良部/与論”のタグを付けておきます。
訪問地はマイマップ(沖永良部島・与論島 )を作成して写真をアップしてあります。
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北東部から南下してワンジョビーチへ。
ビーチの手前の石灰岩の崖下には風葬地の跡。
沖永良部島では「トゥール」という名称でした。大島の笠利町城間にある「トフル」と同じ”通る”という意味のようです。喜界島では「ムヤ」(喪屋)、ちなみに大島の奄美市小湊集落も「ムヤ」というらしいですが、大島の宇検村にある「佐念モーヤ」と同じく、砂岩を掘ったのですがなく、サンゴの石垣を組み合わせた石棺のようなもので、恐らく、サンゴの石垣で砂岩を刳り貫いたような形にしたのではないでしょうか。
ただ、沖永良部島では集落は水場(暗川もしくはホー)を中心に形成され、墓地は集落から離れた場所、そして喜界島と違って風葬墓は利用されていません。
島内はサトウキビ畑とユリ畑。立ち寄った歴史民俗資料館もユリの歴史が中心でした。
タバコ畑はかなり減ったらしく、少なかったです。
お天気はそこそこでしたが、湿った南風が当たっているためか、標高はさほど高くない大山は雲というか霧に覆われていて、植物園と展望台へ行ったのですが、視界はききませんでした。
大山も含めて沖永良部島では、喜界島ではたくさんいたウグイスは大島よりも多い感じでしたが、喜界島ほどではなく、ホトトギスもときたま鳴いてるぐらい。チョウは少ない感じです。オオゴマダラも見かけませんでした。
大山を下りて、世之主の墓へ。立派な遺跡です。
すぐ近くの後蘭孫八の城(グスク)跡の遊歩道を散策したのですが、大島の笠利町赤木名にある赤木名城(グスク)と似ている感じを受けました。
この日はNさんのご自宅に宿泊させてもらうことになっていたので、ご自宅のある知名へ。
ご自宅近くのジッキョヌホーに立ち寄ると、ギョボクが咲いていて、葉っぱには食草としているツマムラサキマダラの黄色い小さな卵が葉1枚に1つづつついていました。
夕食は近くの知名フローラルホテルに入っているレストランへ。
行ってみると「貸切」の札ですが、Nさんが中をのぞくと知名町教育員会の方々。Nさんも午前中に参加した文化財審議会の方たちの飲み会でしたので、混ぜてもらいました。
色々お話している中で、ワンジョビーチの話からバンシローズのワンジョビーチの歌の話になると、教育委員会の方がバンシローズのメンバーでした。びっくりです。
22時まで食べて飲んでお話して、お開きとなったのですが、Nさんが行きつけの店があるからと、結局、寝床に入ったのは24時を過ぎてました。
((4)へつづく)
コメント
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[…] 同じ石灰岩の島のはずの沖永良部島と与論島は、また蝶や鳥の状況が違うのも面白く、謎が残ります。 […]