2012年2月19日に行われた「ヤンゴ歴史フォーラム」に行って来ました。
内容については「奄美学入門」にまとめていますので、ご覧下さい。
去年の7月24日にも奄美郷土研究会の例会で「白糖工場跡地散策」に行きましたが、2009年10月16日には島内の4箇所全ての白糖工場跡をリクエストがあったのでご案内したことがありました。引越し前のブログの記事なので消えてしまっていますので、改めてご紹介します。
工場跡地というの実際には4箇所ともに残っていません。しかし、工場はかなり大規模なもので、国内初の蒸気機関を使っていて、昭和10年に聞き取り調査した冊子によるとエントツの高さは30mあったそうです。
工場廃止後は工場は解体、機械は鹿児島へと運ばれ、エントツに使われていた石やレンガが再利用されています。
写真は瀬戸内町久慈の工場から伊目へ運ばれて個人宅の塀や門柱、石畳として利用されているところです。
中を繰り抜いて花壇としても使われていました。
宇検村須古でも集落内に塀として利用されています。
このお宅には耐火レンガもそのまま残っていました。
”COWEN”と掘られていますが、海外で生産されて運ばれたもののようです。久慈では家の軒先、雨樋の無いトタン屋根から落ちてくる水で地面がえぐられないように使われていましたし、須古の集落の墓地では山の斜面につくられた墓地へ登る階段のステップとして使われていました。
龍郷町瀬留にはほとんど形跡もこういったレンガや石材もありませんでしたが、名瀬は何故小学校の名瀬幼稚園側の塀の下や屋仁川通りの山側の裏道沿いにある古い家の塀の下、有村倉庫の南養鶏側の下、同じく有村倉庫の駐車場内にある花壇になっていたりします。