海と緑に包まれた島の時間は波のようにゆるやかに流れるが、都市の時間はビルの谷間の突風のように駆けていく。無邪気な子どもの時間と賢い大人の時間。
大人時間で過ごす健太郎の都会暮らしは、もうすぐ四年になろうとしていた。
ある日の夜、健太郎は夢を見た。
浜で千代さんが手を振っている。凪の海を背に、笑みを浮かべながら、ゆっくり、ゆっくりと手を振っている。やさしく、深い瞳が健太郎を包み込んでいる。
静かだ。時折、聞こえる波の音が柔らかい。
やがて、千代さんはたおやかな笑みを浮かべ、ゆっくり手を振りながら、海の彼方に去っていく。そっと口もとが動いた。何かささやいている。
「元気でいるんだよ・・・」
柔らかい風に乗って、健太郎の耳に届いた。その声で健太郎は目が覚めた。涙がとめどなく流れた。素手で顔を拭きながら、健太郎は子供のころ、おじいちゃんが亡くなる前にも同じような夢を見たことを思い出していた。
一週間後。知らせが届いた。サンゴの海の香りがする千代さんの懐かしい手紙ではなく、「千代さんが亡くなりました。」という悲しい知らせだった。あの夜の夢は現実になった。
健太郎は駆けた。駅に至る道を、駅の中をひたすら駆けた。電車の中や飛行機の中では心が駆けていた。
千代さんはつましく、美しかった。生きているようだった。健太郎は子供のころにしたように添い寝した。静かに目を閉じた。
千代さんと暮らした子供の時間が甦ってくる。千代さんはいつも言っていた。
「賢い大人より、無邪気な子供の心を持った大人になってね。」
その意味が健太郎は今、分かったような気がした。都会暮らしで賢くなったように思っていた自分が、本当は自分を見失っていたのだということに気づいた。
出棺の日。健太郎は一枚のタオルを取り出し、そっと棺の中の千代さんの頭にかけた。健太郎の涙が染み込んだタオルだった。千代さんが綴ったたくさんの手紙に対する、健太郎のたった一度にして最後の返事だった。